5月に入ったばかりの頃だった。私はいつもよりも少し早い時間にグリーソンズジムへと行った。昼からの練習を終える人間と夕方から練習を始める人間とが、ちょうど交差する時間帯だった。
私は自分のトレーナーである、マイクのロッカーの側にある椅子に腰をかけた。そこではマイクが自分の選手達と笑いながら会話をしスパーリングの準備をしていた。
私もグローブの紐を結ぶ手伝いをし、再び椅子へと座った。そしてぼんやりとし、一息ついた所で着替え始めようとしたときだった。
「アー!ア!ア!」
と、大きな雄叫びのような声が耳に入ってきた。私の座っている場所から一番離れたリングの方からのようだった。
私は(おお、気合いの入った声だな。)と、覗くようにして座っている席からそのリングの方を見た。そこには白人のトレーナーのミットを受けている髪の長い女性の姿があった。
彼女はこのミット打ちの前にスパーリングでもしたのだろうか、激しく息を切らしていた。しかし、そんな自分を奮い立たせるかのようにして声を吐き出し、自らを叱咤した。両腕が疲れで垂れ下がりそうなのを必死でこらえ、声と共に彼女はパンチをミットめがけ打ち続けた。その二つの音が重なり、交わったと思える頃に、インターバルのジムのブザーが鳴った。
トレーナーが彼女の汗を拭いてやり水を含ませてやると、「今度はサンドバッグだ」、というような指示を与えているのが見えた。彼女はもたげていた頭を勢いよく上げ、
「ハッ!」
と、いうような声を上げ、リングを降りバッグの方へと向かっていった。
ブラックのタンクトップとリングシューズ、そしてブルーのトランクスを着た彼女は、背が高く、長い茶色がかった黒髪は頭の後ろで結わいていた。
タンクトップから剥き出しにされた彼女の腕や肩にはボクサーと呼べるだけの筋肉があり、汗とジムのライトが彼女の肌を照らし、その隆起を際立せていた。その彼女の肌の色は私の肌と同じ色をしていた。
彼女の名前は中村チカ、という日本人の女子プロボクサーだった。
———続く
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