ガーデンが、揺れた。
それは一人の男がMSG(マディソン・スクウェア・ガーデン)に姿を現した時の出来事だった。
11月11日、NYはMSG、ウラジミール・クリチコとカルビン・ブロックの間で行われるIBF世界ヘビー級タイトルマッチのリングの上では、前座試合のケビン・ケリーとマニュエル・メディナが特に観客を沸かせるわけでもなく、淡々と試合を進めていた。
その試合の終盤に差し掛かかろうか、とする頃、リングサイドの一角で人のざわめきが起きた。あの男が会場に現れたのだ。
観客達は皆一つの方向、その男めがけ体を傾けた、その瞬間、MSGは揺れ、そして観客達の声援がその男に、会場に降り注いだ、
「アリ!アリ!アリ!アリ、、、」
その男とは、この試合後、行われる女子ボクサー、レイラ・アリの父であり、かつてはこのリングの上で激闘を繰り広げ、この日、娘の試合の観戦に訪れていたモハメド・アリのことだった。
今をさかのぼること1971年3月8日、アリもこの日と同じリングの上に立っていた。
”世紀の対決”と呼ばれたジョー・フレイジャーとの世界ヘビー級戦、アリは大方の有利の予想に反し、フレイジャーの勢いに乗る攻撃をさばききることができず、11Rには連打でダウン寸前にまで追い込まれ、最終15Rにはフレイジャーが最も得意とする左フックをもらい、とうとうダウンを奪われた。かろうじて立ち上がったアリだったが、反撃の余力はすでに失われ、そして判定のすえ初の敗北を喫する。それはアリの神話が打ち砕かれた瞬間でもあった。
そのアリがダウンをした瞬間、MSGの会場にいた2人が心臓マヒで、この試合を観ていた全世界で少なくとも5人は死亡したと言われている。
それから35年後、今リングの上にはウクライナ出身の巨人、その2メートルを超える体格から繰り出される強打で”Steeihammer”と呼ばれる王者、クリチコと米国、シャーロットで育ち、銀行にも勤め”The boxing banker"と呼ばれる29勝無敗
のチャレンジャー、ブロックの姿があった。
試合序盤はクリチコのジャブに対し、ボディ・ブローを狙うブロック。クリチコがブロックとの距離を上手く掴めないため、なかなか右のストレートを当てることができず、ブロックのボディ後のクリンチに手を焼いていた。
しかし、5Rを過ぎる頃、クリチコは次第に右を強引に打ち込むことでペースを掴む。そして7R、残り20秒を刻もうとした時、クリチコのジャブからの右ストレートがブロックを捉え、たまらずダウン、カウント9で立つも足下がおぼつかず、レフェリーに試合はストップされた。
過半数を占めるウクライナ人がクリチコ勝利の瞬間、歓喜に沸いていた。しかし、その時を迎えるまで、彼等は声の行き場を失ってしまっていた。終わりこそ豪快だったが、試合全体を通し、彼等が見せられていたものは、距離に戸惑う王者、腰の引けてしまっている挑戦者というグローブとトランクスを身に着け抱き合う二人の裸男の姿だった。
この日、観客が感じていた思いとは何だっただろう、プレスルームにいた一人の新聞記者が呟いていた、
「boring(つまらない)試合だった、、、」
少なくとも、人の心の鼓動が止まってしまう程の瞬間は一度も訪れなかった。そう、どの試合でも、、、
アリが会場に姿を現した、まさにその瞬間、くしくもリングの上ではケリーがメディナからノックダウンを奪っていた(が、またはそれはスリップをとられたのかもしれない、試合後のスコアカードにはどこにもメディナがダウンを喫したようには書かれてはいなかった。それぐらい、私は曖昧にしか見ていなかった。)。しかし、そのリング上で起きた出来事を目撃した観客はそれほど多くはなかったのかもしれない、誰もがリングの上で起きた出来事よりも、アリを一目見ようと必死であったからだ。
それはこの日、または今というものを象徴しているかのようだった。
この日、誰一人MSGを動かしたボクサーはリングの上にはいなかった。
——終わり
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